映画の感想とかの備忘録として

ツイッターでおさまらなくなった感想の記録 ネタバレを多分に含みます

草の響き

工藤和雄(東出昌大)は、昔からの友人で今は高校の英語教師として働く佐久間研二(大東駿介)に連れられ、病院の精神科へやってくる。和雄は東京で出版社に勤めていたが、徐々に精神のバランスを崩し、妻の工藤純子奈緒)と共に故郷の函館に帰ってきたばかりだった。精神科で医師の宇野(室井滋)と面談した和雄は、自律神経失調症だと診断され、運動療法として毎日ランニングをするように指示される。(映画『草の響き』公式サイトより)

www.kusanohibiki.com

この映画は、函館シネマアイリスが映画館の25周年記念として企画、制作、プロデュースを行う佐藤泰志小説の映画化プロジェクトの五作目にあたる作品だ。

2018年公開の『きみの鳥はうたえる』を当時観たときに、私も訪れたことのある函館の、どこか寒々しく色のない街並みが懐かしい一方で、

目標や趣味もなく社会からも浮き、どうでもいい人生を軽薄に生き、次第に周囲から置き去りにされていく主人公を自分と重ねて見てしまい、どうにも後味が悪かったのを覚えている。

その一方で、美しくて特別な映画だったので、今作をとても楽しみにしていた。

 

『草の響き』で描かれる自律神経失調症と診断された主人公の姿は、私もかつてそういう診断名で治療をしていた頃を思い出させた。

とくに、酔い潰れてリビングで夜中に精神薬を口いっぱいに頬張るシーンはとてもフィクションには思えなかった。

聞けば原作の佐藤泰志は41歳の頃に自殺しており、原作小説はそもそも彼自身が同じ病気を患い、ランニング療法を行なった経験がもとになっているらしい。

 

他者が理解できない行動や心理描写の生々しさはきっとノンフィクションなんだろう。

夫婦にとって取り返しのつかない決定的な出来事となった主人公のオーバードーズ、そして並行して描かれ交わる高校生のひとり彰が崖から海に飛び込んで死んでしまったこと、

私にはなにか覚悟や意志をもっての行為には思えなかった。きっと「なんとなく」そうしたのだろうと思う。「なんとなく」死にたかったのかもしれないし、「なんとなく」しんどかったのかもしれないが。

 

主人公が精神科の閉鎖病棟に強制入院となり、だんだんと回復し、前向きな気持ちで妻の純子に公衆電話をかける。

しかしその頃、純子は主人公のもとを何も告げず去っていく。

近しい人は何度も傷つくと自分自身の信頼や情を捨ててしまうことを知らず、無邪気に口から出るままに留守電に言葉を残す様子は見ていて痛々しく、やはり自分を見ているような気持ちになった。

 

この繊細ですべてが噛み合わない空々しさを映画にした斎藤久志監督、主人公を演じた東出昌大は本当にすばらしいと思う。

原作を知りたくなったのでさっそく佐藤泰志の作品集を購入した。

https://www.amazon.co.jp/佐藤泰志作品集-佐藤泰志/dp/490668128X

犬は歌わない

原題?SPACE DOG これを「犬は歌わない」という邦題にしたのはセンスがあると思う。

名古屋シネマテークでわずか7日間の上映ということだったので、見逃してなるものかと汗まみれで鑑賞に行った。外は雷が鳴り響いていた。

予告編はちょことよこ観ていて、動物モノなのでもはや義務感で観ようと思ってはいたが、ライカが宇宙に発射されて振動している場面などにかなり抵抗は覚えた。

はたして冷静に鑑賞できるのかな?という でも私も映画好きとしての、動物好きとしてのプライドがあるので観ることは決定していた。ちなみに犬肉についてのドキュメンタリーも観たことがある。好きなものは知らねばという歪んだ強迫観念を持っている。

ただ「犬は歌わない」は予告編で覚悟していたよりもずっと過酷な映画で、「あ、これは途中で退席するやつかも?」と思った。結果、私が観る限りひとりも脱落()者はいなかったように思う。みんなメンタル強いな、、。

犬かわいい、犬かわいそう、の繰り返しにひたすら翻弄される映画だったように思う。

野良犬のパートはどれくらい現実のものだったのかは分からない(すくなくともリクガメは演出だろう)。それでも宇宙に旅立つために訓練を受け、人を信頼し、バイタルチェックのために体に穴を開けられたり切られたり、亡骸で帰還したり、生存したのちは繁殖が仕事となった犬たちの映像は間違いなく記録だと思う。

非人道的な動物実験といえば簡単に結論の出る問題だが、これらの恩恵を多かれ少なかれ私達は受けていると思うので(それも知らないのだけど)、しかも動物、ましてや犬は家畜、ペットであり人間ありきの生き物であるため、人類の発展のために利用されるのは必然なのかもしれない。

迷惑な野良犬として毒入りの肉で殺されるか、人に愛され人を愛し、宇宙に放たれ、数ヶ月も不安な状態で宇宙をさまよい燃え尽きるか、

いずれにせよ犬自身に生き方の選択肢など無いのだと絶望的な気分にはなった。そしてもちろん犬の希望など分からない。生存本能くらいしか。

動物を好きで守りたいと言いながら、動物を傷つける者は排除すべしと思いながら、どちらにも貢献できない立場に甘んじているのだと思う。なんて楽なんだろう。

そういった感じで、詩的なビジュアルと邦題に反してだいぶん酷な映画ではあったように思う。でも観てよかったと思うし、犬はやはりかわいいと思う。亀も、チンパンジーも、猫も。人も須らく尊い

どこまで自分、つまり人間と同一視し感情移入するのか、それが何を招き、何を拒むのか、問いかけを刻むような映画だったように思う。

映画館と同じビルに入った書店で、関連書籍が無いかと思ったが見つからず、しかし動物倫理の本はあったのでそれを手に取った。

へんしんっ!

「へんしんっ!」を鑑賞。

オープン上映なので、ガイドはデバイスなどではなく、字幕はスクリーンに、音声ガイドはスピーカーから流れてくる。ある意味、デバイスでのガイドって、捉え方によっては、しょうがい者へのサポートが健常者の「普通の鑑賞」の妨げにならないようになっているのかなと思ったり。つまりけっこう最初こそ騒がしいと思った笑 もちろんすぐにどうでも良くなった。

予告を見て、私(健常者)と、しょうがい者(目が見えない、耳が聞こえない)とのコミュニケーションしかなぜか想像したことがなかったけど、異なるしょうがいを持つ人同士のコミュニケーションを探る場面にはっとして絶対観に行こうと思っていた。

監督自身が主役でもあるドキュメンタリーで、それなのに石田氏は全編においてすごく積極的って感じでもなく、言葉も少ない印象。受け身だと指摘されたことがある、との言葉に納得。

会話のスピードに思考ではなく喋るという動作で遅れてしまうのかな、そうすると他者が代弁しがちな、そこに思いやりがあるとて一方的なコミュニケーションになるのかな〜、とか、人の目線の動きとかに距離が刻まれてる感じがした。

サポートする側が、「しょうがい者」というくくりで考えてない、みたいなことを言ってたと思う。私もそうありたいしそう思い込んでいるけど、今までの生活や教育の中で、あまりにも意識させられてきたから、やっぱりその意識は消えないと思う。自分の気持ち?ポリシー?と、実際の自分の行動(車椅子やしょうがい者を見つけると、色んな理由で距離を取ってしまう)の乖離がずっと気持ち悪かったんだが、この映画観てるうちにふっと胸に落ちた。

私はきっと葛藤してるんだな〜と気づけた。

石田監督が能動的に、コミュニケーションの手がかりを探っていくのかと思いきや、石田監督自身が意外とけっこう消極的?なのか、インタビューした人々が石田監督を引っ張り上げていくような物語になっていた。

もちろん周囲に影響を与えていくが、石田監督自身が変身していくドキュメンタリーになっていて面白いと思った。

わたしの好きな映画も、音楽も、視覚や聴覚に依存した趣味だから、ときどき不安になるけど、そうか身体は生きていれば誰しもが持っているよな、、と思った。

身体表現にすごく興味がわいた。